Then what?

中学の国語の先生が、「落ち込んだ時はこの本を読んだら良い」って言って、太宰治の『人間失格』を勧めてくれた。「落ち込んだ時にこの本を読むと、どん底まで落ち込むから、あとはもう上っていくしかない」って。
僕が『人間失格』を読んだのは、それから10年近くも経った大学卒業間際。渡米留学中、僕は専攻に関係なくアートの知識や技法を片っ端から学んで作品を作り続けて、個展やグループ展をやってたら在学中に賞をもらって、学生生活を全力でやり切った。少なくとも、自分はそう感じてた。学ぶことは好きだったし、学校の課題に関係なく、学部すら無視して面白そうな講義を受講して、厳しくて難しいって噂の教授の授業をあえて受けてた。楽しかった。最高に充実してたし、学んだことへの手応えもあった。

Then what?

大学の就職ガイダンスを受けに行ったら、僕のレジュメを見た担当者は開口一番、「陶芸彫刻専攻の学生に合致する就職先なんてないよ」って言われ、学部の教授たちに片っ端から相談するもののみんながみんな一様に「大学院に進みなさい」って言うのだけど、残念ながらもう仕送りはその時点で終わってたから、あとは自力でなんとかしなければならない。結局それ以上学生を続けるオプションは無かった。

努力すればなんとかなるなんてのはウソだ。努力すればするほど、良いように利用される世の中の仕組みを、その時の僕はまだ理解してなかったし、うっすら気づいていてもあえて目を背けようとしてた。分厚いコンクリートの壁に向かって、全力で体当たりし続けるような日々が続いた。
その頃だ。僕は自分の腕に物差しをあてて、正確に1インチごとに皮膚を切り取った。制作中になにかものの長さを測りたくなった時に、自分の身体が「物差し」代わりになれば便利だなと思ってやったことだったが、今から考えるとあの時の自分は正気では無かったかもしれない。血を見ていたら、何故か落ち着いた。その痛みが、自分をかろうじて現実に繋ぎとめているような気がした。

『人間失格』を読んだ。なんだが腹が立った。この本の主人公は、なんとくだらないことで悩んでるのかと思った。失恋やら、体面やら、しがらみなど、そのくらいのことで何を落ち込む必要があるのか、と。その本を読んでどん底まで落ち込むつもりが、自分はとっくにそんな小説よりもさらに深い深いところに落ちていたらしい。

実はね、どん底だと思ってても、実はもっともっと底があるんだよ。どん底に落ちたと思っても、さらにもっと深いところに簡単に転がり落ちる。
卒業直前に事故で友人を亡くし、アメリカに残る決意をしたものの、住所不定無職の状態で所持金の残りを気にしながらの就職活動。日本に帰る金がなくなり、いよいよかと思った時に、ようやくロサンゼルスにある宝石デザイン会社に雇われることになってハッピーエンドと思いきや、実はどん底はまだまだその先だった。

ようやく仕事に就くことができてホッとする間も無く、働けど働けどいっこうに生活は楽にならず、入社して数ヶ月経ってとうとう銀行の金が底をついた。残高不足で小切手が支払い不能になったのだ。
たまたま手に取った雑誌に、「外国人留学生が卒業後に劣悪な就労条件で食い物にされる」という特集記事が書かれてた。「可哀想な外国人留学生」の事例が三つほど掲載されていたが、そのうちの二件は僕よりも給与や待遇が良かった。
就職して、どん底から抜け出したと思っていたけど、実はまだまだ自分は落ち続けてた事に気づいた瞬間。

Then what?

しょうがないよ。どうしようもない。
本当にどん底を経験した人なら分かると思うけど、底の底まで落ちてってしまうと、感覚や感情が希薄になってく。

ある朝、通勤途中で交差点を抜けた瞬間、後続車が信号無視の車に横から追突された。僕はバックミラー越しにその事故の瞬間を目撃したんだけど、全く何も感じなかった。何も、だ。僕が交差点を抜けるのが一瞬ズレてたら、あの信号無視の車は僕が運転する車に突っ込んでただろう。運が悪ければ僕は怪我をしたり、下手したら命を落としてたかもしれない。でも、それに対して僕は全く何も感じなかった。むしろ、それが自分で無かったことを少し残念にさえ思った。

運転しながら、急に力が抜けた。

ハンドルに覆いかぶさるように突っ伏して、そのまましばらく走り続けた。
あの瞬間が、自分にとっての本当の意味でのどん底だったような気がするが、いざそうかと言われると、そうでないような気もする。
ただひとつ言えることは、今から考えるとあの頃の経験は自分にとって確実にプラスになっているってこと。
あの時代があったからこそ、今の自分がある。それは間違いない。

奇跡を願ってた日々。

努力がなんの意味も持たず、かえって良いように利用されるだけだと気づいても、どうでも良くなった。自分は、そういう生き方しか出来ないのだから。例えムダだとしても、利用されてるだけだとしても、その努力がなんの意味を持たないとしても、頑張るしかない。
実際に、奇跡が起きたという実感はないけど、あの頃の自分を振り返ってみると、ここに自分がこうしているのは奇跡的だと思う。
写真の仕事をした後、WEB制作業界でデザイナーとして多国籍企業のサイト制作を行い、その後モバイルやスマホなども加わって、医療やヘルスケア系のサイトづくりなどにも携わった後、外資系のデジタルマーケティング代理店に転職。今は、客先常駐という形で、六本木にある検索エンジンで有名な会社で仕事をしてる。
もちろん、僕一人の力でここにたどり着いたわけではない。人生の節目節目に、導いてくれた人や、出来事。出会いとか、偶然とか。 というわけで、今自分はここにこうして存在している。

Then what?

未来のことは分からんけど、とりあえず今はやるべきことをやれるだけやってる。仕事とは別に、「日曜アーティスト」を名乗って、隙間時間にブログを書いたりものづくりをしたり。たいした作品はつくれないけど、とりあえず「死ぬまでつくり続けること」が目標。
40歳の誕生日は、銀座のギャラリーでグループ展に参加して、若い作家さんたちに混じって話をしたり、スケッチをしたりして過ごした。 いろいろ回り道をしたり、道草食ったりもしてるけど、そんなこんなも含めて、今のところ良い感じに充実しているし、いろんな出会いもあったりして、悪くない人生だと思う。